"〇〇らしさ"の呪縛?
女らしくとか男らしくとか、既存イメージの"らしさ"から解放されようという動きがある。
とても良いと思う。
しかし、"らしさ"からの脱却を意識するあまり、らしくいたい人を追い詰めることがあってはならない。
例として、
「パンプス履くとか女アピしすぎじゃない?」
これは本末転倒。
"らしさ"からはずれることが目標になってしまっている人が、"らしさ"を楽しんでいる人を認められないということが起こっている。
多様性というのは、あらゆる価値観を認め合うということであるはずなのに、多様性という言葉を使って、規範(らしさ)からはずれることを目標としたり規範からはずれなければいけないと勘違いしている人が少なくない。そしてあろうことか規範からはずれない人を下に見たり、攻撃をする。
わたしは所謂、らしさを楽しんでいる側の人間で、女の子らしいとされているものが好きだ。ピンク色、リボン、レース、花、スカート、メイク、ヒールのある靴…行為で例をあげるなら、料理やショッピングだろうか。スイーツ女子という言葉で連想してもらってかまわない。
でもこれは、自分が女性に生まれたからこういうものを選ぶべきだなんて思っていない。かわいい、楽しい、気持ちがいいと感じているから選んでいる。
男らしくも同様である。
ジェンダーレスが流行し(K-POPアイドルなど)中性的な容姿を目指す男性が増えた。
それによって、既存の男らしさから解放された人々がいる。ここまではいい。そこで、今までどおりの男らしさでいたい人を責める権利など誰にもない。
自分がかわいいと思ったらそれを選べばいいし、またはかっこいいと思ったらそれを選べばいい。
らしさから解放されようとする人、らしさを気に入っていて大事にしたい人、どっちでも良い。自分が心地いい自分になり、また別の人はそのひとが心地いいそのひとになる。それを認め合うのが多様性であり、目指すべき未来だ。